医療者から見た地域医療のいま
医師は生き甲斐を感じられる仕事。
今は、次の世代にリレーをつなぎたい
2013. 12. 20 文/梅方久仁子
時間の進み方が、ゆっくりになった
病院ではそんなに充実していたのに、こちらで開業されたのは、お父さまのあとを継ぐためですか。
布施 そうです。でも、実はもう一つ、年齢的な限界を感じたこともあります。私たち外科は、メインの仕事が手術です。それが、40代になると少しずつ老眼になり、目の焦点が合わなくなりました。血管はまだ分かるけど、神経は細くて見えない。すると、それまで2時間でできた胃がんの手術に、2時間20分かかるようになる。この先、もっと時間がかかるようになるなら、若い人に譲るしかないと思いました。
ちょうどそんなときに父が弱ってきたこともあり、1989(平成元)年の11月に、佐原に戻りました。父は、翌年の12月に亡くなりました。
地元に戻ってこられて、いかがでしたか。
布施 一番感じたのは、時間の進み方がずいぶんゆっくりになったことです。開業医だと、命がかかっている人の主治医になることは、ほとんどありません。すると、だいたい夕方の6時過ぎにはフリーになってしまいます。最初の頃は、それがものすごくもの足りなかったですね。
そうしたら、ちょうど当時の医師会長が父の友人で、私を小さい頃からよく知っている人だったんです。それで、むこうも気楽に「修ちゃん、これをやってくれないか」と持ちかけてくる。こちらも手持ちぶさただから、引き受ける。そういうわけで、いろいろな公の仕事にクビを突っ込むことになりました。医師会附属の准看護学校の講師とか、三郡航空機対策協議会とかです。
三郡航空機対策協議会というのは、成田空港で航空機事故があったときに備えて、周辺にある印旛郡市、山武郡市、香取郡市の3つの医師会が協力し、訓練をしたり研修を行ったりするものなんです。
地域の医師会で、そういう活動もされているのですね。でも、診療をしながらでは、時間のやりくりが大変でしょう。
布施 だいたい会議は午後7時半くらいからですから、大丈夫です。メンバーには大病院の院長先生や救急部長さんもいて、みなさん昼間は忙しいですから。勤務医に比べると、私は時間がたくさんあります。何かやっていないと退屈してしまうたちなので、私にとっては渡りに船でした。