医療者から見た地域医療のいま

地域医療を支える「かかりつけ医」?わが町のお医者さん?

医師は生き甲斐を感じられる仕事。
今は、次の世代にリレーをつなぎたい

2013. 12. 20   文/梅方久仁子

布施外科医院院長、香取郡市医師会会長 布施 修一 氏
布施外科医院院長、香取郡市医師会会長
布施 修一 氏

 地元に密着して地域医療を守る「かかりつけ医」にご登場いただき、医師という仕事や地元への思いを語っていただくこの連載。今回は、香取市佐原の布施外科医院院長で、香取郡市医師会会長の布施修一氏にお話を伺った。

外科医はやりがいがある仕事

医師になろうと思ったのは、どうしてですか。

布施 そういう環境にいたからでしょうね。うちは祖父が耳鼻科、父は脳外科で、佐原で開業医でした。私は親のあとを継ごうと思ったわけではないけれど、子どもの頃から父親が働く姿を間近に見ていて、面白そうな仕事だなと思っていました。やっぱり、やって面白くて、生き甲斐を感じられる仕事をしたいじゃないですか。それで佐原高校から日本医科大学に進学しました。

外科を選ばれたのは、お父さまの影響ですか。

布施 そういうわけではありません。医学部で6年生になると、3~4週間ずついろいろな科を回り、実際にどんなことをやっているのかを体験します。そのときに、自分には外科が向いていると思いました。外科は比較的短期間で、やっていることの成果が出ます。2週間くらいで状況がガラッと変わる。でも、例えば精神科や内科では、2週間くらいではほとんど変化がありません。短気な自分には、とても務まらないと思いました。

大学卒業後は、どうされましたか。

布施 東京の飯田橋にあった日本医科大学第一病院の第二外科に勤務しました。

 大学病院にいるときは、朝7時には病院にいて、帰るのが夜9時という生活でした。常に命がかかっている患者さんがいて、自分が手術をしたのだから、責任がある。いつでも駆けつけられるようにと徒歩7分のところに住んで、休みの日でも必ず1度は病院に顔を出しました。1年365日、毎日です。でも、手術をして患者さんに接していると、全然負担には感じませんでしたね。やっぱり、好きで選んだ分野だからでしょう。経済性だけを考えれば、外科医を選ぶなんて損ですよ(笑)。

ずっと東京で勤務医をされていたのですか。

布施 飯田橋の病院に14年くらい所属していましたが、そのうち半分以上は、系列病院に派遣されて全国を回っていました。尾道、天橋立、富士宮といった土地に1年ずつくらい行きました。でも、私はずっと病院の中にいたので、あとから行ってみても、その土地をほとんど知らないんです。家内のほうは、けっこう「あそこはこうだった」という思い出があるようですが。

そこまでして働いていたのは、患者さんのためですか。

布施 もちろん、それはありますが、それだけでもないんです。医者というのは、ものすごく勉強のしがいがあって、やればやるだけどんどん身についていく。それが、すごく大変なんだけど、やりがいがあるんです。

 われわれの時代は、先輩は何でも「見て覚えろ」で、教えてなんかくれませんでした。分からないことを図書館で調べようにも、当時はインターネットなんてないですから、まず、求める資料がどこにあるかを探すための資料を読んで、それからやっと求める資料を探して読んでといった具合です。でも、必要性があるから、すごい勢いで吸収しました。

 あとで分かったのですが、人から教わったのでは身につかないですね。自分で調べて、考えていかないと。そうやって身につけていくと、しばらくすると反射的に動けるようになります。例えば救急患者さんに対応するときには、「何が必要か?」なんて考える前に、反射的に身体が動くんです。